空の見える窓から

50代、主婦。ミニマリストになりたい。

父を見送る・1

父の通夜、葬儀・告別式とも、近い身内だけの「家族葬」。母と、実子3家族で合計12人。

実家のある自治体の葬祭施設は、実家から車で10分ほど。

 

父は4人兄弟の4男。伯父たちはみな他界。母の兄弟も、一人で遠方まで出てこれないため、自然とごく内輪でのお式だった。

その分、連絡や受付、席次などのわずらわしさもなく、簡素だけれどもゆっくりお別れができた。檀家ではないので、葬儀屋さんに紹介してもらった導師様だけれど、充分にお経をあげていただいた。

どうかすると、お墓参りくらいの短時間のお経で済まされることもあるとかないとか。

 

式の前後や花入れの時には、ずっと甥っ子(父から見て孫)の弾くピアノ曲がBGM。父も応援に行った地元コンクールや、兄弟そろって同行した大阪でのコンクール本線で弾いていた曲がくりかえしくりかえし流れていた。 

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通夜の後の会食の時には、父がみんなで集まったときのために用意してあったワインが開けられ、棺のわきには小テーブルにグラスワインが添えられた。通夜式会場のすぐ脇の部屋が会食できる部屋になっていて、時間中は通夜式会場に居る父に代わるがわる話しかけに行くことができた。

 

告別式の時には花入れの前に、ユリのつぼみからとった花びらが用意され、今度は長男が用意したワインを花びらに取り、一人ずつ父の唇を湿らせた。花入れの後は棺のふたが閉じられてしまうため、花を入れながら思い思いに父に話しかける。

 

今まで、祖父の葬儀に親族として出たことはあっても、従来の、大勢の人が訪れる式で、遠方で普段の行き来が無い分、知人の葬儀に出席するのとそう変わらなかった。一番大変だったのは、同居の伯父夫婦だったろうし、葬儀委員長だの世話役だの、身内以外の人も沢山いて、じっくりお別れの時間を過ごすというセレモニーではなかった。

 

もちろん、お仕事関係、交友関係で大きな葬儀は必要な場合もあるけれども、本当に近い身内だけで行う家族葬も、やってみるとなかなかいいものだった。規模が小さいから手抜きだとかではないし、お供物や供花が多い・少ない・並べる順番がなど余計なところで見栄を張ったり神経を使ったりしない分、清々しささえ感じられた。

  

実家のある地域では、最近はほとんどが家族葬らしく、ご近所さんは葬儀の後、手向けのお花などを持って葬家にお焼香に行く。子どもの代が地域から離れているので、親世代だけの付き合いで終わってしまうことから、お香典なしが約束ごとなのだそうだ。

 

 

今回、何事もスムーズにいったのは、こういう地域の事情や母の意向も踏まえて、事前に葬儀屋さんを決め、見積もりを取っていたことが大きい。これは、弟(長男)が本当によくやってくれた。

この業者さんを選んだ理由は、広いエリアをカバーしている葬儀業者の中には、受付のみ行い、あとはエリアの従来の葬儀業者さんに引き継ぐところもあるけれど、自社社員が打ち合わせ、当日の司会進行など責任をもって直接担当していただけるからと言うのが一番の理由(ドライアイス交換など、一部外注する部分はあります)。

 

↓ ご参考まで

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12月20日 お別れ

世間がクリスマスで賑わっている24日・25日は、父の通夜、葬儀・告別式がありました。年末年始のおめでたいムードに水を差すかもしれないのですが、20日当日にあったことを、覚えとして記事にしておきます。

 

今でも印象深かったのは、「やはり教科書通りでないこともあるんだなあ」ということ。何せ初めてのことで、傍で見ていても、息を引き取る瞬間というのはわからなかったです。

心停止の後の、呼吸しているかのような口やあごの動き、湿らせたガーゼに反応して口を引き結んだり、水を飲みこんだり、目をぎゅっとつむったりすることが「反射」と言われても、専門的にはそういうことなんだとしか思えなかった。

 

弟たちは間に合いませんでしたが、母は「子どもたちのうち、一人でも間に合ったのが良かった」と安心したように言っていました。入院と言う形で病院での看取りになった以上、「人目のない時にひっそりと亡くなるかもしれない」ということを、母も私も覚悟していたからです。

 

当日、家族のバタバタしている様子がわかると思います。最近は自宅に戻らずに直接葬祭場に預けられることもあるそうですし、ある家族の一つの例として関心のある方のみお読みください。

 

 

 

 

 

 

午前7時56分

実家より電話がかかって来るが出られず。

 

7時59分

病院より連絡があったということで、母から電話。「支度してすぐ出ます」と返事。

今日は在宅勤務の夫がゴミ出しに行っていたので、身支度。戻ってきたので「これから病院へ行く」と伝え、洗濯物を干す。

夫が職場へ連絡してスケジュールの変更をし、カーシェアの車を確保して病院まで送ってくれる。

 

8時22分

カーシェア駐車場を出発。

 

8時45分

病院着。病室の廊下で母と合流。

母と二人で父に話しかけたり、手を握ったり。昨日と同じように、体温が低い。尿が出ていない。

看護師さんが血圧と体温を測りに来るが、血圧は測れなかったらしい。体温計が冷たかったのか、違和感があったのか、口を開けて呼吸をしていたのに、キューッと一文字に口元が引き締まる。

数日前から希望を出していた個室への移動を改めて母が申し出る。

主治医の回診。

 

9時40分ごろ

個室への移動の為、病棟ロビーで母と待機。数分で、看護師さんが慌てて呼びに来る。正確には何というのか、心拍数などをモニターする機械のアラームが鳴っている。父はまだ口で呼吸をしている(ように見えた)。

「お父さん、明るいお部屋でびっくりしたの?」などと声をかけているうちに別の看護師と医師が来る。

 

9時50分

「心停止です」。

 

まだ弟ふたりが到着していないため、医師による(死亡)確認はそれからということになったけれども、すぐには理解できなかった。だって、まだ口を開けてのどが動いていて、息をしているようにしか見えないのに。

体だって、まだ温かいのに。

呼吸をしているように見えるのは、筋肉の反射らしい。

 

母が、ガーゼを水で湿らせたもので唇をぬぐうと、冷たいのか口元を引き締めた。ごく少量を口の中に垂らすと、飲み込んだ。

少し後に私も同様にすると、やはり飲み込む。

 

涙が出ていたので、水で絞ったティッシュで拭くと、冷たそうにきゅっと目を閉じる。これも反射?

 

しばらく見ていると、次第にのどの動きも小さくなっていき、やがて動かなくなった。よく、「息を引き取って終わる」と言うのに、それらしいことはわからなかった。たぶん、呼吸と呼ばれるものはずっと前にもう終わっていたんだろう。

 

10時34分

呼吸(に見えるもの)が止まる

 

10時38分

のどの動きが止まる

 

 

 

11時ごろ

母は血糖値のコントロールをしているため、毎日決まった時間に食事を摂らないといけない。弟たちが来ないので、死亡確認もできない。

いつも持ち歩いているアメを舐めているが、昏倒すると危ない。院内のコンビニでサンドイッチを買ってきてとりあえずの昼食。

弟たちが来るまでの間に、夫にも食堂で昼食をとってもらう。

 

食べているところへ主治医の先生が来られる。『よくこんな時に食べてるなあ』と思われたかもしれない。慌てて立ち上がるけれど、きまり悪いというか、やっちまった感あり。「かまいませんよー」とは言われたけれども。

 

「〇〇さん、よくがんばったね。お疲れさまでした」末後の水を飲んだことを母が伝えると、「お水飲めたんだ。よかったねえ」と声をかけてくださる。

毎月の抗がん剤治療の入院期間があって(その期間に休むことができて)、やっと母による介護が成り立っていることや、父の治療に対する要望など、よく理解して親身に治療していただいた。がん再発後の見通しも、非常に正確で、家族の心の準備ができたことも、この先生のおかげ。

 

 

11時50分

家族が全員揃ったところで、医師による死亡確認

 

その後、看護師さんによる着替えと整容。急なことで用意がなく、病院のコンビニへ浴衣を買いに走る。というか、わかっていても待ち構えているようで用意なんかできない。

 

最後にメイクをするときに、母と私が呼ばれる。

点滴や酸素マスクが外され、さっぱりとした浴衣姿はほんの少し前の病衣姿より、ずっと気持ちよさそうに見えた。

母と二人で父の顔をお湯で絞ったタオルで拭く。メイクは看護師さんにお任せ。男性でもファンデーションを塗り、ごく薄く眉や唇にメイクをすることで、まるで眠っているように穏やかな表情に変わる。

 

その後、地下に移され焼香があるということだったが、実家で父を迎えるための用意をするために母と次男夫婦は先に帰宅。長男と私でそのまま病室で待機。搬送業者の到着を待つ。

孫のピアノ演奏会の動画をスマホで再生。

 

14時15分ごろ

搬送業者さん到着。ストレッチャーを病室に運び込む。看護師さん数人でベッドから移動。「〇〇さん、きれいなお顔ねえ」など、生きている人に対してと同じような声がけのありがたいこと。ガンコ者で有名だった父。本当にお世話になりました。

 

地下へ移動。主治医と看護師さん数名とともに、簡単に献花式(造花だったけど)。地下の霊安所って、冷蔵室みたいなところかと思ったら、和室の小上がりが2室ほどあるセレモニーコーナーになっていて、遺体をしつらえて簡素な献花台を置くようになっていた。

 

15時過ぎ

父を運ぶ車に同乗して実家へ。葬儀社の担当者さん2名でリビングに用意された布団に父を寝かせ、祭壇を設置。焼香。次男夫婦が買いに走った白い花々が大ぶりの花器にたっぷりと生けられて、父の枕元の寂しさも和らぐ。

通夜・葬儀日程、場所の決定。その他概要の確認。

 

16時過ぎ

近所のスーパーでお総菜など夕食の買い出し。リビングで父の話をしながら食事。いつもなら自分の家族の夕食準備のために帰るけれども、この日だけは母と兄弟が揃って父の傍で食事をしたかった。父は、みんなが集まって食事をするのが好きだったし。

 

 

父、帰宅する

12月5日にショートステイ先から救急搬送され、入院していた父ですが、 

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 12月20日、80歳で生涯を終えました。

 

母は、私より少し先に病院に着き、「痰のゴロゴロもなくなったし、子どもたちも迎えに来るから、一緒に家に帰ろうね」と言葉をかけることができ、心残りがない様でした。

 

主治医の先生や、看護師さんたちと心のこもったお別れの時間があり、父と一緒に自宅へ戻ることができ、私も心残りなく過ごせた1日でした。

 

喪主である母や、施主である弟(長男)はもうすでに様々な手続きに追われています。私もしばらくはあわただしい毎日だろうと思います。

 

書きたいことが整理出来たら、少しずつ記事にしていきます。

 

 

12月19日

昨日、母と弟(次男)が行っているので、今日は一人で病院へ。

 

眠っているようで、声をかけても起きない。額に手を当ててみると、今までより体温が低い。あまりに寒がるので、布団の上から電気毛布を掛けていたのに、今日は代わりに布団が一枚増えていた。

顔が一回り小さくなったみたい。頬がこけている。点滴で水分だけだもんね。

時々うっすらと眉間にしわを寄せるけど、それもすぐおさまる。

   

もう意思疎通はできないのかもしれない。私も、父に「ありがとう」って言えばよかった。今までは眠っていても必ず目を開けて、こっちを見てくれたのに。

 

うっすら目を開けて、顔をこちらに向けたように見えても、目はどんよりしていて起きているのかどうかはわからない。でも、話しかける。

 

「今日は風がなくて、暖かいよ。とってもいいお天気」

「点滴の場所を変えたんだねえ。右手はあったかいね」

「左手は冷たいねえ。握るとあったかいでしょ?」

 

ほんの2日前までは、意思疎通ができ、手も動かしていたのに、今日は静かに横たわっている。

 

呼吸は規則正しく、おだやか。ここ1週間ほどは、痰が絡んだゼロゼロと言う音は聞こえない。

 

 

 

12月17日

母と私で病院へ。

 

声をかけると、目を開けるものの、焦点は定まらない感じ。

母に気が付くと、何か訴えかけるように声を出すけれども、言葉にならない。

「苦しいの?」と聞いても、首を横に振る。しかめっ面をしたり、肩で息をしたり、見た目は苦しそうなんだけど、苦しくはないらしい。

 

時々、肌着の襟元がうっとおしそうに手で引き下げたり、苦しそうにのど元に手をやったりするのだけれど、本当に苦しくないのかまではわからない。

 

しきりに何か言いたそうに声を出すので、口元に耳を寄せると、かすれてとぎれとぎれだったけど、

 

「ありがとう」

 

という一言。何とか聞き取れた。うんうん、わかったよ。お母さんにもちゃんと伝えたから。

 

そうかと思うと、楽そうに眼を閉じて穏やかな呼吸の時もあり。

 

話せる時は、着替えや清拭を嫌がってしない日もあったのだけれども、ここの所毎日清拭してもらっているそうだ。肌着の替えが引き出しにあることを看護師さんに伝えておく。

靴下を交換。足はやや冷たく、むくみがある。

 

モルヒネを使いだしてから、ずっと眠り続けるのかと思っていたらそうでもなく、眠たそうではあるけれど、今日のように意思疎通もできるのだそうだ。

最初は目の焦点も合わないぼんやりした感じだったのが、話しかけているうちにだんだんまっすぐ視線を向けるようになって、母も私もなんだか少しホッとする。

 

看護師さんに、同室の患者さんに迷惑なようで、もし一人部屋の空きがあれば移してもらうように伝える。人の出入りが多くなったり、騒がしかったりするかもしれないし。

 

午後から長男が、明日は平日休みの次男が病院へ行く予定。

 

 

12月15日 モルヒネの使用が始まる

12月15日

今日は母だけでお見舞い母と弟(次男)夫婦でお見舞い。母が腰を痛めてしまったので、次男夫婦が車で病院まで連れて行ってくれる。

父のシーツ交換の際に、より床ずれに合ったマットレスを使うので、ベッドごと交換したとのこと。

3人で病室に居るには人数が多いので、母は少し父に話しかけた後病棟ロビーへ。

 

その時携帯に入ったメッセージ。

母「こっちの言うことはわかるけど、目を開けない」

私「何か言ってた?」

母「何も言えない状態」

 

15日午前に、痛み?があったのと、新しい機械が1台増えていたのが、看護師さんから聞いた説明を忘れてしまったらしい。

前日の様子とかなり変わっていたので、私の方が驚く。

 

12月16日

弟(長男)お見舞い。母は腰痛で動けず。

増えた機械はモルヒネを投与するための物なので、何らかの苦痛を減らすための処置らしい。

父は眠っていて、声をかけても起きなかったとのこと。

 

 

 

 

 

 

12月14日

13時17分、病院着。面会時間は13時から

 

「お父さーん、来たよー」と声をかけて手を振って見せると、目を開ける。

 

「今日は風が強くて寒いんだよー、でもとってもお天気で明るいよ」

3人部屋の一番入り口に近いベッドで、周囲をぐるっとカーテンで覆われているので、外の天気がわからないし、一定の明るさのせいで時間も分かりにくい。

 

父「今年の冬は寒いのかな」

 

寒い寒いというので、布団をかけなおしたり(布団がカバーの中で丸まっている)、足をマッサージしてみたり。乾燥しがちな皮膚だけど、清拭の時に保湿剤を塗ってもらったのかしっとりしている。それほど冷たくはなさそう。

 

肩先にも手を当ててみるけれど、寝間着越しだと温かさをあまり感じないのか反応なし。いつもするように、「熱は無いよねー」と頭に手を当てると「あったかい手だなあ」。これがいつも一番反応があるんだよね。

 

うとうとと眠る合間に、「点滴と酸素マスクだけで、治療をしてくれないんだよなあ」。うーん、先月の退院の後に、もう緩和ケアに移行しますって説明されてなかったっけ?忘れちゃった?

 

あとは夢の話なのか、「兵庫県警の警察官と、〇〇(母)と、俺でお酒を飲んだんだけど、現役の警察官にはかなわないなあ」「お酒の強い人?」「そう」。

母は白内障の手術をきっかけに、10年ほど前にお酒はぴたりと止めた。父の亡くなった兄は警察官だったけれど、兵庫県じゃないし。「伯父さんの知り合い?」と聞いても「ちがう」。

 

今日の担当の看護師さんが挨拶に見えて、「今日はシーツ交換しますね。お下もキレイにしましょう。またあとで来ます」。

「シーツ交換だって」と言うと、しかめっ面でイヤイヤをする。「寒いから、何もして欲しくない」でもねえ、交換したほうがあったかくなるよ。

 

同室の患者さんが、術後なのか「明日にも歩く練習をしますからね」と言われているのを聞いてニヤニヤしている。父も術後すぐ歩行練習をしたことがあるので、「そうそう、イヤでも歩くんだよなあ、知ってるよ」とでも言いたそうだ。

 

またうとうとしだしたので、眠い?と聞くと、目を閉じたままうなずく。痛いところは無いし、だるいところもないと言う。でも今日は眉間にしわを寄せている。

「そろそろ帰るね。また来るからね」と言うと、目を閉じたままうなずく。一昨日よりさらに口数が減ったような気がする。

 

この翌日、母と弟(次男)夫婦がお見舞いに行った時には、目を開けたり、会話したりはなく、聞こえているのがわかるしぐさ(かすかにうなずいたり、首を少し動かすなど)だけになっていたそうだ。

 

だから、14日の父との時間が、会話らしい会話をした最後だったのかもしれない。