家族が休職するとき・見守る家族の気持ち
今日の記事は、お役立ち記事ではないです。まとまりもなし。重めなので、興味ある方だけどうぞ。
家族(ウチの場合は”子”。成人だけど)が療養するようになって、できるだけ普段通りの生活をするつもりだったのに。
やっぱり無理なんです。でもうまく言葉にできない。どう言えばいいんだろう。
「我を忘れた」家族
そんな時に見つけたのがこちら。
がんに限らず、おそらく難病奇病をえた方、またそのお身内の方はそれまでの日常をとつぜん失う。治療に関係する本を読みきれないほど集め、健康法に関係する情報に頭を占拠され、思いは未来への不安と過去への後悔でいっぱいだ。
重い病気は激しい恋に似ている。何をしていてもそれ以外のことが考えられなくなり、他の事が手につかなくなる。まだ起きていないことを期待したり絶望したり感情が安定しない。涙もろくなり、体調も不安定になる。こういう状態を「我を忘れる」という。
なるほど、「我を忘れて」いたわけだ!
以前できていた在宅の仕事が、今はできない。テーマに沿った統計資料を集めたり、制度改正の資料をチェックしたりができない。
大好物だった事例を読むことも面倒に感じて、途中で放り出してしまう。
丁度仕事の切れ目だったこともあって、迷惑をかけるのは最低限に抑えられたのかもしれない。
穏やかな生活。だけど…
幸いなことにゆっくりと病気は快方に向かい、家族である私も身体的には健康。夫が稼いでくれるおかげで、経済的に不安なくいられます。
食生活は以前より充実。仕事に向けられていた神経の大部分が料理することに向いているから。
かつお節を削り、新ショウガを漬け、ほとんどしなかった揚げ物を作り。
冷蔵庫の食材を腐らせて廃棄することがほぼなくなりました。
食卓の充実度が上がったのに、食費は減った(笑)。
それなのに というか、それだから なのか。
病気の場合は「病気について考えなければいけない、考えるべきだ」と思ってしまうところ。そしてそれ以外のことに注意を向けることに当事者は罪悪感を覚え、周囲も当事者を責めることだ。
だって、命を失ってしまったら。
すでに消化しきれない情報に埋もれ、負いきれない課題を抱え込み、そのうえ一朝一夕でどうにもならないことを考え続けるのはただただ消耗する。切羽詰まった人の知能は知的障碍レベルまで落ちるという実験がある。でも考えることを止める方法が、止めていいと自分に許可する方法がわからない。
ああ、そういえば脳のキャパが越えたら、人間はまともな判断ができなくなるのだという話を聞いたことがある。
そしてそのキャパは、お金や時間などの欠乏でも減ってしまうらしい。切羽詰まる=心の余裕の欠乏だから、私の現状はこれってこと?
自分を取り戻す何かが必要だし、それがとても大事 ってことなんだね。